発達障害と要観察

医療機関に発達診断を受けにいくと、「要観察(経過を見る必要がある)」と診断されるケースが多いそうです。一歳半健診で約20%の子供が要観察と判断されている(2000年、飛騨圏域の公衆衛生)ことを見ても、いわゆるグレーゾーンと言われる子供の数は相当数いると想像されます。スウェーデンの調査でも約20%に神経発達・精神発達上の問題があると推定されています(1996年、ランドグレーンら)。

そして、このグレーゾーンの子供達までピックアップすることが母親の育児不安をあおっているという批判もあります。「心配ないです」という安心感を与えるほうが大事であるという意見もあります。

しかし、いっぽうで「保護者が子どもの特性についての情報を持つことは10~11歳になったときの適応を向上させる傾向があった」という調査結果があります(1993年、ギルバーグら)。

私は後者を支持します。なぜなら「親が一番の理解者でありサポーターであること」が、子供達に大きな力を与えると思うからです。

軽微であっても発達障害を抱えた子供は、集団のなかで多くの挫折を味わい、苦労しています。そして家に帰っても「あなたは何回言ったらわかるの」「どうしてこれができないの」と責められる。本人にはどうしようもない能力障害の問題なのに、こんなに毎日努力しているのに、誰もわかってくれない。小さな体で懸命に頑張る子供の努力を、認めてあげる人が必要です。そして、認めてあげられるためには、「この子には障害(あるいはどうしても伸びにくい不得手)があるんだ」と、親が正しく理解できていることが不可欠と思うのです。

私は自分自身の経験上、要観察とされた子供には、脳画像の専門医による評価をおススメします。「なぜこの子はこれができないのか」という原因がわかることで、子供への不要なイライラが無くなりますし、長所や伸ばし方を教えてもらえて療育にも役立つからです。決してお安くはないですが、その子のその後の人生を変えるインパクトがあったと思います。
脳の個性(才能・障害)を専門医が鑑定

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障害か個性か

この子の言動は、障害か個性か。わが子に発達障害の疑いを持ったとき、多くの親は「障害なんて大げさ、ちょっと人と変わっているだけ。個性よ個性。」と考えるものだと思います。そして専門家による診断は受けず、なんとかやれている子どもを見て「大丈夫、大丈夫」と時が過ぎていきます。

障害か、個性か。これを自問するとき、正確にいうと私達は「この子は障害者なのか、障害者じゃないのか」について考えているのだと思います。そして当然ながら障害者だとは認めたくありません。言葉だって普通に話すし、元気に遊んでいる。この子が障害者のはずがない、と。

いっぽう、ある心療内科の先生の統計に、発達障害の子どもが成人するにつれ、うつ病を合併するケースが78%、不安障害36%、依存症44%。合併症なしはわずか4%というものがあります。また、実際に自信を無くし、心がボロボロに傷ついてしまっているASの成人が数多く存在しています。

こうした事実をもとに考えると、ちゃんと「障害がある」と認めてあげること。つまり、ほかの子が当たり前にできることが、いつまでたってもできないのは、「この子の努力不足ではない」とわかってあげること。このことがとても大切なのではないかと私は思います。

ASの子が、場にふさわしい行動がとれなかったときに怒るのは、手が不自由な子が箸を落とすたびに「なんで持てないの?」「何度注意したらわかるの?」と叱責しているようなものだと思うことがあります。(不適切なたとえでごめんなさい。でもそれくらい子どもは辛い思いをしている可能性があると知ってほしいのです)。

いっぽう「あーこの子はこういう個性なんだな」と放置するのも危険だと思います。まず家の外でさんざん傷ついて、自己評価を下げます。次に、これ以上傷つかないよう人と距離を置いてふるまうようになります。その結果、いっこうに社会性が育たず、大人になって大変な苦労をすることになります。

適切な療育を施すために、障害は障害として認められる必要があるのだと、専門書には繰り返し書いてあります。私もそう思います。そもそも個性というのは、その子に限らず、すべての子に存在するものなのですから、「障害か個性か」という問い自体がおかしいのかもしれません。また「障害があるか、ないか」が重要なのでもないと思います。その子の親として一番知っておきたいのは、「この子には特別な支援が必要かどうか」ではないでしょうか。

※本サイトも、ご参考まで。(子どもの発達障害の診断について

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2012/06/22 | コメント/トラックバック(0) |

カテゴリー:AS雑感